松井秀喜が5打席連続敬遠された後に続きがあった件 代表北川哲平の諸々

 

※ちなみにこの投稿、全部読み切った方は、たぶん神レベルですw

失敗は、
時期が変わり、価値観が変わると成功にも変えられる。

能力が無いことは、能力が有ることの裏返し。

現状肯定、過去ALL善。
なんでも経験しとかないと損ですね。

毎日3つの『感謝』について書き、
5日間続けた後、3人の人に、バトンを渡すんだそうです(^.^)

本日は4日目。

貴重な機会をお預かりしてます。感謝です<(_ _)>
次のバトンがいる方は、お声掛けください。

1.但馬一喜先生

北川は、
経営コンサルになるために、大学は経営学部に入り、
就職も経営コンサルになるための会社と考えていました。

当時の知識では、経営コンサルと税理士の違いがわからずに、
経営コンサル=税理士と思っており、
会計事務所を志願しておりました。

諸事情あって、
大学3回生の途中から、姫路で仕事を探してたんですが、
(大学は、仕事をしながら無事卒業させて頂きました(*^_^*))

広島出身で、大学は滋賀県の草津市。
大学3回生の途中から、姫路での就職ということで、
相当怪しい求職者だったと思いますw

学生時分の北川は、
会計事務所中心に手当たり次第履歴書を書いては出して、
書いては出してを繰り返してました。

30件くらい出してすべて、電話連絡もなく、
履歴書を送り返して頂けるところがあるかないか、くらいの反響でしたw

送ってダメなら直接持参して
いつ面接して頂けるか直接聞こう。と、

今思うと相当迷惑なことを考え、

但馬一喜税理士事務所に、アポなしの履歴書持参で行きました(^^ゞ

とにかく経験が積みたいという一心で、
給料も戦力になるまでいらないので、雇ってほしい。と懇願した結果。
相当怪しいけど、勢いがあって良いと言って頂き、お仕事をさせて頂くことができました。

当時、但馬先生と北川の2人という事務所だったこともあり、
マンツーマンで会計業務をミッチリ教えて頂きました。
何度となく同じミスをしては、何度となく叱って頂きました。感謝です。

入社してから、戦力になる前から給料を頂けるどころか、
毎日、お昼は食事に連れていって頂き、毎食おごって頂いていました。
お金が無い自分にご配慮頂いたことですが、
それだけの時間を共有して頂けたこと、お心を頂けたこと、とても感謝しております。

但馬先生は、若手のやり手税理士でどんどんお仕事を増やされている方で、
北川もどんどん経験を積ませて頂きました。

2年ほど勤務させて頂き、
書類をお客様から預かって入力作業を行う、
その正確性、スピードは着実に上がっているものの、
同じ作業の繰り返しになっている自分に気付きました。

コンサル的な仕事もやらせて頂きたいと相談しましたが、
それをするには、もっと大きい会計事務所に行ったほうが良いと勧めて頂き、
数十人規模の会計事務所に求職し、雇って頂きました。
思いをこめて、手塩にかけて育てて頂いたご恩は忘れません。感謝です<(_ _)>

2.吉田正之先生

姫路近辺で数十人規模の会計事務所は、
片手で数えるほどしかないのですが、
但馬先生のところでの経験が自信となり、1つ目に応募した、
吉田正之税理士事務所に就職させて頂きました。

当時、新卒募集しか枠がなかったのに、
無理くり応募して、数十人の中から第二新卒を選んで頂きました。

内定頂いた決め手は、
尊敬する人物はと聞かれ、
「タモリです」
と躊躇なく答えたことだとお伺いしましたw

普通は両親とか、歴史上の人物とかを答えるみたいですがw、

誰とでも、どんな世代の方でも、関係性の構築ができるので、
常々尊敬してました。今でも尊敬してます。タモさんに感謝です。

大きい事務所だけあって、
凄まじくいろんな経験をさせて頂きました。

ですが、本来的な業務は但馬先生のところで経験した入力作業に加え、
お客様の入力したものをチェックするという業務が加わるくらいでした。

別に吉田先生の事務所がどうこうではなく、
会計事務所は、そういうところだということを、
北川が知らなかっただけのことです。

今の知識なら就職先にコンサル会社を選択していたと思うのですが、
当時から今現状も、
求人募集をしているコンサル会社は、
地方都市姫路においては、北川の会社くらいなので、
どっちにしても経営コンサルをやろうという人間が、就職地として地方都市を選ぶ時点で世間知らずにも程がありましたw

現状でも地方都市では、
コンサル=どうのこうのと、
得体も知れないものを、ひと括りして捉える方が多い感じです(*^_^*)

(ちなみにコンサルというのは、意思決定支援業です。会社で何かの判断をするときに、ひとりで全部決めてしまう人がいると、上手く会社が機能しないことありますよね。何かの意思決定をするときに、自分と違う知識、経験を持った人間に意見を聞く、相談する、提案してもらう。決定権の無い社外取締役というところです。意思のある取締役自体が複数存在しない会社が多いので、コンサルの必要性を感じる会社が地方都市には少ないのが現状です。むしろ少ないから感謝ですが、その話は長くなるので、このへんで(^^ゞ)

まあまあ話がそれましたが、
吉田先生は、年齢も北川と約三回り程違い、
北川は生意気で自己主張の強い子供みたいなもんですが、

そんな北川を吉田先生は大きな愛で受け止めて頂きました。

入社の際には、
交通費を出して、広島から両親を呼んで頂き、
同期のもう一人も、静岡からもご両親を呼んで、
会社の説明会もして頂きました。

毎回、新人が入社するたびにされてるとのことで、
それだけでも冷静に凄いことだと思います。

自分を大事にするためにも、
家族を大事にし、
両親を大事にし、
祖先を大事にすべきだということをいつもおっしゃっておられました。

祖先を含めた家系図を書いたこともありました。
また毎月、月初めは、
宮司さんを呼んで月並祭を事務所で行うなど、
視野を広げ、万物に感謝する習慣を身につけさせて頂きました。

入社して1年間は、ほぼ毎日研修、
2年目以降も、ことあることに研修。
これだけ人に投資ができる会社はそうそう無いというくらいです。
北川とは経営者としての器の違いを感じます。

吉田先生のところでも、
与えられる業務は、やはり作業的なことばかりでしたが、
北川がコンサル業務がやりたいと言えば、自由にやらせて頂きました。

目の前のお客様は、会計、税務だけでなく、
北川がやろうとしている経営コンサルを求めている。
でも北川には提供できる術がない。

そのギャップを埋めるために、
6年間試行錯誤し、
与えられる会計・税務業務に上乗せする形で、
成功されている経営者の思考、言動を伝えるところから、
経営コンサルを勝手にやらせて頂いてました。

後半は、だんだんとお客様の実績にも関われるようになり、
経営のお困りごとがどこかのお客様で発生すると、
「哲平、行って来い」と言って頂き、
勤務中だけでも百社以上の経営に関わらせて頂くことができました。

構築したノウハウを、
北川だけでなく、事務所全体で取り組んで頂きたく、

吉田先生にご承諾頂き、
20代の若造ながら、メンバーではない幹部会に臨時参加させて頂き、
何度も事務所内でノウハウをシェアすべく働きがけをしましたが、

経営コンサルの会社ではなく、会計事務所だということで、
一部の先輩方から相当に煙たがられ続けましたw

若すぎてアプローチが正面突破すぎたなと反省してます(^^ゞ

事務所が税理士法人へ組織変更することをきっかけに
とても尊敬する直属の上司の山崎課長が退職されるとのことで、
北川も同日が退職日になるよう、退職願いを出し、

東京の某コンサル会社に内定を頂き、
東京で住むところも決まってたんですが、
東京に行っても「コンサル」をしてほしいという会社が5社ほど言って頂きまして、
そこまで責任のある仕事ができていたのかと思い、
その5社からスタートで開業させて頂きました。

本当生意気な若造だったと思います。

自分がその気になれば、何でも経験できる環境。
器、度量の大きさをいつも示して頂き、
大きな愛で包んで頂けたこと、感謝です<(_ _)>

3.竹広先輩

話は、中学生時代に戻って、ようやく松井秀喜の5打席連続敬遠がらみのエピソードなのですがw、
(ここまで読んで頂いてる方は、ごく少数派だと認識させて頂いておりますw)

北川は、
中学校のとき3年間野球をやって、
3年生のときにはキャプテンもやらせて頂き、
その関係もあり某甲子園常連校からのお声掛けで、そちらの入学も検討したのですが、
中学のチームメートに守備も攻撃も北川よりも上手い人間が何人かいるのに、
推薦枠も広島だけでなく、県外からも毎年数十人はあって、
その高校に入っても球拾い要員になるだけだな、
今後野球で生計を立てるわけじゃないし、と思ってしまいました。

逆に踏ん切りをつけるため、
当時、広島の県立高校で唯一野球部が無い、安古市高校という高校に入ってます。

そんな北川とは対称的に、
道を究めた方がいます。

中学の2コ上の竹広先輩です。

たけひろ先輩は、チームで一番声がでかく、一番守備が上手かった方です。

でも一方で、
体がとても小柄でバッティングは、まったくできず、
いつもバントをされていた記憶が残ってます。

聞けば、
先輩が中学一年生のころには、
セカンドベースからファーストベースまでも、
投げたボールが届かなかったとのことで、筋トレや練習の甲斐あって、
北川と出会ったころには、鉄壁のショート(2塁と3塁の間)として、活躍されてました。

野球は、
ピッチャーや、ホームランバッターが花形として評価される節がありますが、

たけひろ先輩は、
投げることや、打つことは、自分には無理だけど、
『自分にできること(守ること、声を出すこと)で、一番になる。』
といつも言われてました。

道具のケアも欠かさずされてました。

道具を大事にし、グランドを大事にする。

誰よりも先にグランドに行きグランドを慣らし、
終わればグランドを整備する。

整備が終われば、
グランドにでっかい声で『ありがとうございました』
と一礼をする。

1年の時間を共有させて頂けただけでも、
その生き様がとてもかっこよく、

『精進』という言葉を、
今も目の前のイメージとして明確にすることができています。感謝です。

たけひろ先輩は、
高揚東高校という高校に進学され、
野球は続けられてるとは聞いていましたが、

北川が野球を辞めると決めたその年、
高揚東高校が甲子園に初出場しました。

たけひろ先輩は、
ベンチ入りされていますが、
打つことも、守ることもありません。

伝令役でベンチ入りされているとのこと。

伝令役とは、
高校野球では監督がベンチから出ることを禁じられているので、
試合中に監督の指示をプレイヤーに伝える役目の方です。

15名しか入れない貴重なベンチ入りのメンバーに、
ひとりを伝令役として置くチームなんか聞いたことがありません。

きっと誰よりも精進し、
チームのムードメーカーだったんでしょうね。

何度も甲子園のマウンドへ走る、たけひろ先輩の姿。
とても感動しました。

その年、
石川の星陵と、高知の明徳義塾との対戦で、
星陵の松井秀喜が5打席連続敬遠をされ負けたというのは、
ご存じの方が多いと思います。

その明徳義塾と次に対戦したのは、高揚東。
内外からバッシングされすぎて、
戦意喪失している明徳義塾側の応援席には誰もおらず、
試合が始まる時には高揚東高校の応援団の半分が、
しゃもじを持って応援されていました。

その年、高揚東はベスト4まで進みました。

道を究める姿。学ばせて頂きました。感謝です<(_ _)>

まさかのここまで読んで頂けている方、
仮にいるとしたら本当に感謝です<(_ _)>
精進致します<(_ _)>

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